無料ブログはココログ

« 2012年7月 | トップページ | 2012年9月 »

2012年8月

2012年8月31日 (金)

尖閣・竹島問題は日本の考え方を正す好機だ/どうする日本(その八)

◆日本の曖昧な領土管理はなぜなのか

国家感を喪失した日本外交の当然の結末が、竹島問題であり、尖閣諸島問題である。日本の領土であるのに、相手を刺激するからと、近付くこともしない。遠くから及び腰で、日本の領土だと主張するだけである。尖閣諸島では、中国を刺激するからと日本国民が上陸することさえ許さない。尖閣諸島近海は豊な漁場なのに、漁民も近寄れない。自国の領土であるのに腫れものに触るごとき対応は、国際的に理解されないものである。
さて、この日本独特な対応は、境界に常にあいまいさを残すという和魂からきているように考えられる。
日本的な考え方に中心限定方式(中心型概念規定)というのがある。意味の中心だけを決めて、周辺を曖昧にするというものである。

◆境界を決める二つの方式

言葉の意味や領域を定義するのに二つのやり方がある。一つは周辺限定方式で、その広がりや、意味の限界を「ここまで」と定めて、その中が領域だと定義(主張)するものである。自分の領土はここまでだとする決め方であって、境界がはっきりしていて分かりやすい。
もう一つのやり方は、中心限定方式で、境界ではなく中心を示してその周辺に曖昧な領域を残したままその言葉の意味や領域と定義する方式である。この方式の問題は境界線が分からず、曖昧な領域が広がることである。
ここは自分の領土だぞと主張しているのだが、その周辺限界は、自分が睨みをきかせている範囲だという風であって曖昧である。
この曖昧な領域は、睨みをきかせるパワーの強弱で変化することがある。強大なパワーがあれば、睨みをきかせる領域は広がり自分の領土として支配する領域は広がる。ところが、パワーが弱体化すれば、睨みがきかなくなり、他者に浸食される可能性が出てくる。

日本が、尖閣諸島の領有権を周辺限定主張的に、実行支配する方策をとっていなかったから、こんな曖昧な領土・領海紛争を生んでいるのだということができる。それは、見方によっては、日本の国力が低下して、睨みを利かせる範囲が狭くなってきたことを表している。今後、さらに日本の国力低下が進めば、尖閣諸島は中国が睨みをきかせる領域になりかねない。

◆参考になる特許制度の周辺限定主義と中心限定主義

ここで、参考になるのが、特許制度の周辺限定主義と中心限定主義である。
日本の特許の考え方は、従来は中心限定主義で周辺が曖昧になっていた。そのアイディアのポイント(中心)だけを明記して権利化し、そのおよぶ範囲をはっきりさせないのである。周辺の曖昧な領域は問題が起こる都度、解釈をしていくという方法である。
これに反して欧米ではアイディアの範囲、すなわち境界を明確にしてそのアイディアの領域を明示していた(周辺限定方式)。
日本と欧米の間では、この特許の考え方の違いのため、さまざまなトラブルが起こった。
今日、知的所有権の国際化が進展したことに応じて、日本も、西欧的に特許制度を変えて来ている。それによりトラブルを少なくしようとしている。

◆変革を迫られる日本の領土の曖昧管理の考え方

この周縁からと中心からの二つの概念規定の方法は、そのまま、西洋的なものの見方と日本的ものの見方を象徴している。
日本の睨みをきかすだけという領土の管理は、曖昧な中心限定的な考え方があらわれているように考えられる。
しかし、今回の、竹島問題、尖閣諸島問題で、その睨みをきかせるだけという曖昧管理の考え方は、変革を迫られるだろう。
もう一つ考えなければならないことがある。それは、日本の睨みがきかなくなったのはなぜなのかを深く考えることであろう。

2012年8月11日 (土)

福島原発事故と「和魂」/どうする日本(その七)

◆原子力の恐怖は生態圏外技術にある

我々は、いま原子力にいいようのない恐怖を感じている。その恐怖の正体はなんだろうか。それは、原子力が生態圏外の技術であるからであろう。
人類を始め、この世のあらゆる生命を育むのが生態圏である。あらゆる生命は、この生態圏で生態系を形成し生きている。
科学は、生態圏を人間の外にあるものとして客観視し、当然のようにコントロールしようとしてきた。そして、生態圏を必要な資源を取り出すための対象として見てきた。つまり科学は、経済と結びつき人間の欲望を満たすための手段となった。そして、その欲望は留まるところを知らず、とうとう、生態圏の外にある原子力にまで手を伸ばすことになった。原子核に中性子を当てて核分裂を起こさせ、原子力エネルギー発生させるという原子力発電を支える技術は、科学が行き着いた最終的段階といえる。

◆生命を育む生態圏を破壊する原子力技術

ところが、生態圏には存在しなかった原子力は、人間のコントロールが効かないし、自然の浄化もできない。つまり、原子力は、私達の生命を育む生態圏を破壊するものなのである。
核分裂で発生した放射性物質は、近寄っただけで人間を殺傷してしまう。その放射線は、何十万年も放出され続ける。人間はこの放射線が低くなるのをただ待つだけである。だから原子力発電の廃棄物は、地中深くに何十万年も厳重に隔離しなければならない。しかし、そんな隔離に適した場所は日本国内では見つかっていない。
こんな原子力に恐怖を感じるのは世界中皆であろうが、特に日本人は、より強い恐怖を持つ理由がある。それは、日本人が意識下に持つ「和魂」である。
日本人は、日常の生活から習慣、物の見方考え方、社会・国家の成り立ちにいたるまで、西欧とは異なる大和心を元に構築してきた。日本人は、自然界いたるところに神性を見出し、崇拝の対象となしてきた多神教である。そこでは、人間は自然の一部であり、自然と人間は一体なのである。自然の中に人間があり人間の中に自然がある。
日本の古代世界において人間と自然は共通の生命の中で互いに対応しており、人間と自然の分離がなかった。人間は自然の一部であったのだ。これが和魂の奥底にある考え方である。
ところが、原子力は生態圏外の技術であり、決して人間と一体化して考えられない。だから和魂に混乱が生まれ、そこからいいようがない不安が生ずるのだ。

これに対して、「洋魂」は、一神教から生れ、自然と人間と神は乖離している。人間は神からゆだねられて自然を支配する存在となる。やがてその科学は、経済と結びつき、それを自分たちの欲望実現手段とみるようになった。だから、生態圏外にあり人間と一体化できない原子力も、普通の科学技術にしか見えないのだろう。そこから生れる恐怖心は、他の科学技術のそれと本質的違いはないのではないか。

◆原発は科学技術の間違った利用であることを訴えるべきである

広島長崎の原爆被害を受け、今回福島原発事故を被った日本は、いまこそ自らに潜在する「和魂」を呼び起こし、生態圏外技術である原子力は、科学技術の間違った利用であることを訴えるべきであろう。

それと共に、「自然を支配するものとしての人間」の行きすぎを正し、「自然の一部としての人間」「自然と共生する人間」という考え方を世界に広げていきたいものである。

« 2012年7月 | トップページ | 2012年9月 »