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2012年7月27日 (金)

どうする日本(その七)罪×恥の文化 2×2=4

◆時代とともに変化する和魂

異文化コミュニケーションの時代を迎え、日本人とは何か、日本とは何かを、改めて問いかけることが必要になっている。それは、明治以降の日本の近代化で唱えられてきた和魂洋才という考え方を再構築することにも繋がる。

ところで、我々は、通常は、「和魂」とは何かを自覚的に認知してはいない。それが認知されるのは、我々が、海外生活をする際に異文化に触れる時などである。それが今日、グローバリゼーションの進展で国内でも日常的に異文化に触れる機会が多くなり、和魂を意識する機会が生まれている。
その和魂は、決して不変のものではなく、時代とともに変化するものであるという。
「和魂はそのように時代に応じて内容の変化するものであり、外国起源の価値であること意識させないほど我物として同化された精神内容は、すべて和魂のうちにおさめられているのである。」
参照 ・平川祐弘『和魂洋才の系譜上』平凡社2006年9月11日p57

過去における和魂の変化は、三つの大文明との遭遇の時であった。ところが今日、グローバリズムの進展の中で、急激に様々な文明に遭遇するという、過去に例がない事態になっている。過去の三つの大文明との遭遇では、インド文明(仏教渡来)、漢文明(儒教など)、西洋文明(科学的思考と科学技術)を、日本化して取り入れるという柔軟さを示した。それは、外来文化の日本化であると称された(ドラッカー名言集)。
この「外来文化の日本化」という言葉の意味は、外来文化を取り入れつつもその独自性を保ってきたということである。
例えば、
中国文明に対しては、和魂漢才という対処で、日本文明はその独自性を出した。和魂漢才は、平安時代中期に成立した概念で、支配階層であった貴族層が学問の基礎を漢渡来の知識に置いたことを漢才と称し、実生活における精神性である知識や判断や処世までを含めた行動様式を指して「和魂」と称した。
西洋文明との遭遇では、和魂洋才という国是のもと、独自の精神性を保ちながら近代化を進めてきた。これが日本は西洋を日本化したと言われる所以である。

◆グローバリズムの急激な進行で危惧される混乱

では、今日のグローバリゼーションでそれが可能なのであろうか?
あまりに急激で多様な変化は、果して従来の日本化のプロセスのいとまを与えないのではないだろうか。それは、和魂の変化にも混乱を与えるように考えられる。その混乱から生れる可能性は四つある。

ここで和魂×洋魂の考え方を元に、思索してみよう。
ルース・ベネディクトの『菊と刀』の中で、女史は欧米の文化は「罪の文化」であるのに、日本人の文化は「恥の文化」であると規定した。

キリスト教文明の欧米では、行動の規範には宗教の戒律があり、神の戒律に反すると強い罪の意識を持つ。彼らの心には常に神がいるのである。それをベネディクトは「罪の文化」と呼んだ。
一方、多神教の日本では、神や仏というより怖いのは、他人の目であり、他人の口である。他人に笑われたくない、恥をかきたくない、これが日本人の行動を規定しているという。
この恥の文化と罪の文化という捉え方は、単純化に過ぎるという意見もあるが、ここではその当否には触れない。

さて、この罪の文化と恥の文化を掛け合わせると

罪なし恥あり文化
罪あり恥あり文化
罪あり恥なし文化 
罪なし恥なし文化
の2×2の四つとなる。それらが急激なグローバリゼーションの中で日本人の行動の混乱を予感させる。
もう一つ、和魂洋才の変化形として、次の四つがあろう。
和魂洋才
和魂和才
洋魂洋才
洋魂和才

以下、次号では、「和魂」の内容を、福島原発事故を例にとり、具体的に考えていきたい。

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